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? ?際の発信者は、読者であるわれわれと同じ世界に住んでいる(いた)生身の作者、すなわち「経験的作者」(empirical author)であるという同じぐらい自明な事実である。フィクションとしての小説を読むわれわれは、小? ? ? ? ? ? ? ? ?説を実際に書いたのは経験的作者であることを知りながら、物? ? ? ? ?語を語るのは語り手であると考える、という二重の身ぶりをみせるのである。小説にかぎらず、より一般的な意味でのフィクションを受容するさいに、たとえば、シャーロック・ホームズなる人物など存在しない(したがって彼にまつわるさまざまなエピソードもまた架空の物語でしかない)ことを知りながら、われわれはそのような人物が実際に存在するかのようにふるまおうとする。フィクションを受容するという体験は、この意味で多分にごっこ遊び的な要素を含んでいるわけだが、このようなごっこ遊び的な身ぶりは、物語の原点として「語り手」の存在を措定した時点ですでに始まっているのである。 このことをべつのいい方でいいなおすならば、次のようにもいえるだろう。口承の物語りの場合とは違い、小説を読むわれわれの目の前に語り手はいない。われわれに差しだされるのは小説のテクストだけである。それではそのテクストにおいて物語を語っているのは誰だろうか。テクストを読めばそれがわかる場合もあるだろう(たとえば最初のシャーロック・ホームズ作品である『緋色の研究』(一八八七)の冒頭には、「元陸軍軍医、医学博士ジョン・H・ワトソンの回想録の一部を再録したものである。」(2)と書かれており、これに続く物語の語り手が元陸軍軍医であるワトソン博士であることが容易に理解される)。そうでない場合(たとえば語り手が自分自身の名前すら明かさない三人称小説の場合)にも、われわれはテクストの発信者として語り手を想定するが、いずれの場合にも共通しているのは、語り手とはテクストから遡及的に、いわば虚構的に措定される存在であるということ、そしてその語り手は、小説テクストの実際の発信者である経験的作者とはかならずしも同一視できない存在として措定されるということである。ここにみられるテクストの実? ? ?際の発信者と虚? ? ? ?構上の発信者との乖離は、フィクションとしての小説というディスコースがもつ一つの特徴でもある(3)。 右に述べたように、小説における語り手とは虚構的に存在を仮定される対象でしかない。そのようなものとして語り手を捉えることによってみえてくる語り手の多様性、小説における物語行為の本質を理解することこそが本稿の目的である。その出発点として、まずはジュネットにおける語り手の概念をあらためて確認しておくことにしよう。一、ジュネットにおける語り手 古くから物語言説は、その語り手と物語自体との関係によって一人称物語と三人称物語とに分類されてきた。プリンス『物語論辞典』(初版一九八七)によれば、一人称物語とは「物語られる状況、出来事の登場人物が語り手である64論文[「語り手」の概念をめぐって]河田 学(また、その資格において「わたし」として指示される)ような物語」であり、三人称物語とは「語り手が、語られる状況、出来事の登場事物でないような物語〔……〕三人称(「彼」「彼女」「彼ら」)「についての」物語」である(4)。すでに前節で触れたように、これらの用語法に修正を加えたのがジュネットであった。ジュネットの提案は次のようなものであった。 〔……〕あらゆる言表行為の主体が自身の言表においてそうであるのと同様に、語り手は自身の物語において〈一人称〉でしかありえない ―― カエサルの『戦記』におけるように慣習的に人称の転用が行われている場合〔たとえば『ガリア戦記』において、語り手であるカエサルは、自分自身を三人称で指示している〕を除いては。より正確にいえば、〈人称〉を強調することは、語り手にかんする純粋に文法的かつ修辞的な選択が、自身の戦記をどのような人称で書くかを決定したカエサルの選択とつねに同じ次元にあるかのように思わせる節がある。実際には問題はそのようなものではないということをわれわれはよく知っている。小説家の選択は、二つの文法上の形式の間での選択ではなく、二つの語りの態度の間での選択なのである(文法的な形式はその機械的な帰結でしかない)。その二つの態度とは、〈登場人物〉の一人に物語を語らせるか、あるいはその物語の外部にいる語り手に語らせるかである。〔……〕それゆえここでは二つのタイプの物語を区別しておこう。語り手自身が自分の語る物語に不在であるタイプの物語(例:『イリアス』におけるホメロス、『感情教育』におけるフローベール)と、語り手が物語世界のなかに一人物として登場するようなタイプの物語(例:『ジル・ブラース物語』『嵐が丘』)である。第一のタイプを「異質物語世界的」〔he\u0027te\u0027rodie\u0027ge\u0027tique〕と、第二のタイプを「等質物語世界的」〔homodie\u0027ge\u0027tique〕と命名しよう。そう命名する理由は明らかだろう。(5)ジュネットの論点は明快である。あらゆる言表においてその言表行為の主体は一人称によってのみしか指示されえないのだから、純粋に〈三人称〉である語りなど存在しない(6)。経験的作者が行っている選択は、一人称/三人称という二種類の人称間での選択ではなく、物語を誰? ? ? ? ? ? ?に語らせるか、より具体的には、物語のなかに登場する人物に語らせるのか、そうでない人物に語らせるのかという選択である ││ これがジュネットの主張である。ジュネットによれば、「わ? ? ?たしは歌う、戦いと、そしてひとりの英雄を。」と語る『アエネーイス』の語り手と、「私?は一六三二年、ヨーク市に生まれた。」と語る『ロビンソン・クルーソー』の語り手とを比較しても、一人称/三人称という呼称は不適切である(7)。なぜならば、どちらの例でも語り手が自分自身を一人称で指示してはいるものの、いわゆる〈一人称の物語〉は後者のみだからである。このジュネットの指摘はまったくもっともだが、ここでは『アエネーイス』の語り手のような語り手 ││ すなわち自身を一人称で指示するが、物語の登場人物ではない語り手 ││ はけっして例外的な存在ではないことを付け加えておこう。このカテゴリーには、たとえば、 およそ作家たるものはおのれを、少数の客を呼んで無償のご馳走をふるまう紳士と考えてはならぬ。作家はさしずめ、金さえ出す者なら誰でも歓迎する飲食店の経営者である〔……〕我?? らがここに調整した品はほかならぬ「人間性」という料理である。ただし余?がただ一品しか名をあげぬからとて、賢明な読者は、いかに口がおごっておられようとも、驚いたり文句をいったり怒ったりはなさるまいと思う。(8)と自らの創作行為に言及する、いわゆる〈作者の声〉をもった語り手も含まれるし、物語のいわば本編にあたる部分を引用するだけの役割を担う「私」(『ねじの回転』(一八九八)の序文や、『人間失格』(一九四八)の「はしがき」における「私」、ジュネットもべつの文脈で触れている例でいえば、『マノン・レスコー』(一七三一)の冒頭部分におけるルノンクール侯爵)も含まれるかもしれない(9)。また、これはジュネットが語りの「暗黙の規範に対する違犯」(10)として言及している例だが、『ボヴァリー夫人』の物語の途中で姿を消してしまう「私たち」も、一般的な事例ではないにせよ、語り手としては同じカテゴリーに属していると考えられる。 じつは先のジュネットからの引用には、語り手の問題を考えるさいの手がかりがもうひとつ隠されている。ジュネットは「自分の語る物語に不在」である語?? ?り手の例を挙げるさいに、「『イリアス』におけるホ? ? ? ?メロス、『感情教育』におけるフ? ? ? ? ? ?ローベール」と書いている。これはともすれば、ジュネットが(いわゆる)三人称の語り手を経験的作者と同一視しているというふうに理解するこ65京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号ともできるいい回しである。われわれはすでに、虚構的に仮定される、作?? 者と?は?べ?つ?の?? ?人格として語り手を定義しておいたが、ジュネットの記述を極端に解釈するならば、このような(架空の存在ではあるが)自律的な存在としての語り手を否定しているともとれるのである。 しかし、ジュネットが否定しているのは語り手の存在そのもの、より正確にいえば虚構的な存在として語り手を仮定することの可能性そのものではない。ジュネットは、自由間接話法をはじめとする小説に特有の文体について、これらは「語りえない文」(unspeakable sentences)であり、そこに語り手は存在していないと主張したアン・バンフィールド(11)を激しく批判し、次のように述べている。 アン・バンフィールドは、語り手なしに物語が存在しえないと主張したバルト、トドロフといった論者を、ある種の軽蔑をこめて引用している(六八│六九頁)。私は、この気の毒な仲間に加わることに何のためらいも感じない。というのも、そのタイトルからしてそうなのだが、『物語のディスクール』は本質的に、この語りという言表行為の審級を仮定することの上に成り立っている。そして恐れずにいえば、この語りというものは、その語り手、聞き手 ││ 虚構的であろうとなかろうと私にとってはじゅうぶんコミュニケーション行為と呼びうるもののなかに存在しているのである。(12)これを念頭に先の一節をあらためて解釈するならば、ジュネットが『イリアス』『感情教育』の語り手をそれぞれホメロス、フローベールと呼んだのは、匿名的な異質物語世界的語り手の場合、彼を作者と同一視せざるをえない場合もあるということを意味するように思われる。ジュネットが語り手を経験的作者の名でもって呼ぶことにどこまで意識的であったかはともかくとしても、このことはすなわち、語り手という(虚構的な)存在を措定することの妥当性と、作者とはべつの人格と語り手を考えることの妥当性とを区別しなくてはいけないということにほかならない。 このことを踏まえ、以降の議論のために簡単に用語を定義しておこう。すでにみたように、小説の語り手とは虚構的にその存在を仮定される対象だが、このように虚構的な対象としてその存在を仮定しうるという語り手の性質を、語り手の「対象性」と呼んでおくことにする。また、この対象性とは区別されるべき性質として、対象として仮定された語り手がさらに経験的作者とはべつの人格として考えうるさいに、この語り手は「自律性」をもつということにしよう。三、バンフィールド対ライアン バンフィールドのいわゆる「語り手不在論」(no-narrator theory)に異議を唱えたのはジュネットだけではなかった。『可能世界・人工知能・物語理論』(一九九一)の著者、マリー?ロール・ライアンもその一人である。ライアンがバンフィールドに言及するのは、ジョン・サールが言語行為論の立場から行ったフィクション言説の定式化に触れるさいのことである。サールの議論は、作者が〈主張〉(assertion; 発語内行為の一カテゴリー)を行うふ? ? ? ? ?りをすることをフィクション言説の一つの特徴としたことでよく知られる分析だが(13)、(いわゆる)一人称の物語においては、サールはこの主張をさらにおしすすめ、作者は主張を行うふりをするばかりでなく、語? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?り手であるふりをすると主張した(14)。これに対してライアンは、一人称小説の場合に限ってこのような作者による語り手への〈なりかわり〉が起こると考えるのは不自然であるとし、すべての場合に〈なりかわり〉が起こると考えた(15)。ライアンは作者がなりかわる対象のことを「代理話者」(substitute speaker)と呼んだが、これはわれわれの文脈でいえば語り手のことにほかならない。 すべての物語について代理話者=語り手を想定しようとするライアンにとって、すでに紹介したバンフィールドらの語り手不在論は最大の難敵であった。ライアンにとって代理話者の存在を仮定することがとくに問題となるのは、「無人格の語り」(impersonal narration)(16)と「全知の語り」(omniscient narration)であった。無人格の語りの問題は、「言説の焦点が言表行為の主体から遊離しており、「このような言説を合法的に発話できるのは誰か」と問うたところで、心と言語運用能力をもった主体、という最低限の推論以上の答えが得られない」ことであり、さらには、文体についても「作者のものと区別がつかず」、また意見についても「内包された作者〔implied author〕の立場を伝達することしかできない」という点である。また、「自由間接話法による思考の報告、意識の流れ、66論文[「語り手」の概念をめぐって]河田 学無意識の過程の表象」といった手法を用いる全知の語り手は、「他人の心を読むという超自然的な能力を前提」としなければ成立しない。どちらの場合においても、語り手をふつうの意味での「人間」として捉えるには無理があろう、というわけである(17)。結果としてライアンは、代理話者の仮定は維持しながらも、代理話者には「私がいうところの心理的現実を呈する、人格を有する/個別化された〔personal/individuated〕語り手と、純粋に論理的な根拠からその存在を仮定される、無人格の語り手という存在論的に異なる二つの種類」(18) が存在することを認めるのである。 このような無人格の語り手、全知の語り手に〈代理話者〉としての資格を与えるか否かという問題は、語り手に対して〈語? ? ?り手〉という擬人的な地位を認めるかどうかという問題にほかならない。この点を考えるうえで、まずはバンフィールドとライアンの議論の間のちょっとしたずれに注意をしておきたい。ライアンはバンフィールドによる語り手の否定論を、少なくとも無人格の語り、全知の語りについては最終的に受けいれているようだが、その根拠はバンフィールドの主張とはいくらかずれているように思われる。前段でみたように、ライアンが懸念しているのは、無人格の語り手の文体や見解が結局は(内包的)作者に帰属されてしまうことであり(すなわち、すでに定義しておいたわれわれの語彙でいえば、ライアンが問題にしているのは語り手の自律性である)、いわゆる「意識の流れ」にかんしていえば、自由間接話法を使って登場人物(たち)の意識・心理を報告する全知の語り手が、超自然的な能力を前提としている点である(このような語り手が自身の語る内容についてそれを語りうる資格をもっているかどうかという問題を、「語りの合法性」の問題と呼ぶことにしよう)。意識の流れが提示する問題にかぎっていえば、バンフィールドが主張しているのは、このような発話を一人の〈語? ? ?り手〉な? ? ? ?る人物に帰属させることのそもそもの不可能性である。つまりバンフィールドが問題にしているのは語り手の対象性なのであり、ライアンが問題にしている語りの合法性ではないのである。 ライアンの観察を糸口として、より一般的な語り手のありようについてどのようなことがいえるのか、さらに二点ほど確認しておこう。第一に、『イリアス』『感情教育』の語り手たちがジュネットによってそれぞれホメロス、フローベールと同一視された理由はもはや明らかだろう。ライアン的にいえば、名前も与えられずじゅうぶん個別化もされていないこれらの語り手たちは、自律性を欠いており、その作品の作者(経験的作者であれ、内包された作者であれ)と同一視されざるをえないということである。 第二に、ライアンによる、人格をもった個別化された語り手/無人格の語り手という二分法についても考えておきたい。ライアンが語り手が人格をもたないと判断するのは、この語り手が作者のものとは同一視されない独自の文体、意見を欠いていたり(自律性の欠如)、登場人物たちの心を読むという非現実的な力を行使している(語りの合法性の欠如)場合である。しかしこれらの欠如、非現実性には程度の差があるはずだから、その程度の差によって語り手のいわば「個別性」にも違いがあってもいいのではないだろうか。全知の語り手と語りの合法性の問題については次節以降で詳しくみるが、無人格の語り手の自律性については、ここで少しだけ考えておこう。 無人格の語り手についてライアンは、「読者は言表行為の主体に、何らかの意見、偏見、文体上の特異性、特定の文化的背景といったものを帰属させることはできるかもしれないが、明確な算定可能な身体的属性を帰属させることはできない」(19) と述べている。この一節をみるかぎり、ライアンにとって語り手の自律性の有無は、(身体的属性の帰属可能性をその鍵とみるかどうかはともかく)ディジタルな問題である。その理由はおそらくは、語り手が意見、文体などの人格的徴候をもっていたとしても、それが作者に回収されてしまうかぎりにおいては、語り手自身は無人格といわざるをえない ││ たとえばジェイムズの『メイジーの知ったこと』(一八九七)では、一貫して少女メイジーを視点人物としながらも、彼女の無知とは対照的な精巧な文体によって物語が語られるが、この文体は匿名の異質物語世界的語り手ではなくジェイムズ本人に帰すべきものだとふつうは考えられてしまう ││ という点に求められるのだろうが、この議論は無人格の語り手の自律性の欠如の理由を説明しているというよりもむしろ、論点先取である。すなわち、無人格の語り手が定義的に名前も身体ももたない語り手である以上、彼に文体(なり見解なり)を帰属させることができないのは当然のことであるから、ライアンが主張しているのは、無人格の語り手の自律性は定? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?義的に欠如しているとみなさざるをえないということだと考えるべきだろう。これと、あ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?る特定の語り手に実際に自律性が観察さ? ? ? ?れるかど?う?か?という問題との間には、語り手が「私たち」を名乗りながら途中から姿を消す(つまり無人格の語り手となる)『ボヴァリー夫人』のようなケースを考えると、い67京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号くらか隔たりがあるようにも思われる。 それでもなお、バンフィールドに対するライアンの(部分的)譲歩には一定の評価をするべきであろう。ライアンが考察した事例に付け加えるならば、語り手のなかには「引用」しか行わない種類の語り手もいる。このような語り手には、すでに本稿でも触れた、手記、日記等を引用して姿を消してしまう語り手(『ねじの回転』『人間失格』)もいれば(これらの語り手は定義的には一人称である)、書簡体小説の編者や(20)、プイグ『蜘蛛女のキス』(一九七九)の語り手のように、登場人物の会話などを引用するだけの語り手もいる(自分自身の言葉ではけっして物語を語らないこの語り手は、自身を名指さないという意味においては三人称的である)(21)。ライアンが代理話者の第二のカテゴリーについていった「たんなる発話位置であり、テクスト宇宙上の視点、作者がテクスト指示対象世界に移動するための「レンタル意識」」(22)という表現は、(三人称の語り手だけにみられるものではないが、という留保はつくが)このような編者=語り手ともいうべき存在にこそよくあてはまるように思われる。語り手とはそもそも生身の人間ではなく虚構的な存在であったことを思いだせば、ライアンの主張は、物語という装置の一つの部分として語り手を位置づけるものとも解釈することができるのである。四、「帰還のタンゴ」をめぐって (いわゆる)一人称/三人称小説の差異を考えるうえで、ぜひともとりあげておきたいのが、フリオ・コルタサルの短篇「帰還のタンゴ」(一九八〇)である(23)。語り手の「ぼく」は、田舎からブエノスアイレスへ出てきた少女、フローラの話をノートに書きためているが、「ある日気がつくと、フローラがぼくにしゃべったことと彼女やぼく自身が付け加えていったこととの区別がつかなくなっていた」(24)。短篇の中心となっているのは、フローラが語ったエミリオとマティルデの物語 ―― これはフローラにとっては涙なくしては語れない物語である ―― の「ぼく」による採録である。その筋は、ざっと次のようなものである。 マティルデは夫のヘルマン、息子のカルリートスと幸せに暮らしていたが、夫が出張で家を空けているある日、自宅の窓の外に「ミロ」の姿を認め怯える。マティルデはヘルマンと結婚するために、メキシコで一緒に暮らしていた元夫のミロ(エミリオ)の死亡報告を偽造し、単身アルゼンチンに戻っていたのである。それから五日目、マティルデは、ミロが「シモン」を名乗り、住み込みの家政婦フローラに近づきカルリートスまで懐柔していることを知る。夫が帰らないままさらに三日が過ぎた日の夜、フローラは「シモン」を部屋に導き入れ情交を結ぶ。行為の後、シモンはフローラにシャワーを浴びるとだけいって、マティルデが眠る寝室のある二階へと上がる。カルリートスが泣き出したので、慌ててフローラが子供部屋に駆けつけると叫び声が聞こえた。部屋の外に出ると裸の男女が揉みあったまま階段を転がり落ちてきた。男はシモン、女はマティルデで、シモンの胸にはマティルデの部屋にあったはずのナイフが刺さっていた。睡眠薬を飲み過ぎていたマティルデも、二時間後に息を引き取った。最後の一文で、「ぼく」はこのとき救急車で駆けつけた医師であったことが明かされる。 この短篇には、テーマ的にみれば二つの物語が含まれている。一つは「ぼく」が冒頭および末尾で語る「ぼく」自身についての物語(フローラの話をノートに書きためている、救急車で駆けつけた「ぼく」はフローラに注射を打ちカルリートスに鎮静剤を処方した……)であり、もう一つはこれらの間に挿入されている、フローラから聞いた話を「ぼく」がふたたび語ったもの(以下、この部分を「フローラの物語」と呼ぶことにする)である。 「帰還のタンゴ」が興味深いのは、「フローラの物語」部分の語りの形式である。この部分はすでに述べたように、フローラが「ぼく」に語って聞かせた物語の再話という形式をとっているのだが、フローラ本人にとっての「フローラの物語」は、初恋の相手であるシモンを自分の雇い主であったマティルデに殺される悲劇である一方で、フローラが「シモン」と呼ぶこの男は、マティルデにとってはあくまでも自分の幸せを邪魔しにメキシコから戻ってきた男、ミロでしかない。この二重性が、フ? ? ? ? ? ? ?ローラの物語であるにもかかわらず彼女だけでなく、マティルデをも焦点人物にすることによって効果的に語られている。物語と焦点化のこのような二重性を象徴しているのが、同一の対象を指して使われるシモン/ミロという固有名詞の二重性である。すなわちこの登場人物は、マティルデが焦点人物であるときには一貫して「ミロ」と呼ばれ、フローラが焦点人物であるときには一貫して「シモン」と呼ばれているのである(先の要約で鉤括弧つきで「シモン」としたのはこのためである)。 焦点化とは、何かを積? ? ? ? ? ?極的に語ることではなくむしろ、焦点人物が知りえな68論文[「語り手」の概念をめぐって]河田 学いことについて語り手が沈? ? ? ?黙するということである。「帰還のタンゴ」についていえば、フローラが知らないのはマティルデの過去にかかわるすべて(重婚の事実、その相手が自分がシモンであると信じ切っている男であること、窓越しに認めたミロへの恐怖……)であり、マティルデが知らないのは彼女と「シモン」との二人の時間、フローラの部屋での情事である。しかしこの作品では、マティルデからフローラへと巧みに焦点人物を切り替えることにより、上記のような二人のうちのどちらか一方のみしか知らないはずのことも語ってしまうのである。 このような焦点人物の変更にはふつう違和感がともなう。じつは焦点人物がフローラへと変わる箇所は曖昧で、フローラを焦点人物にして書かれているとおぼしき箇所(ここではフローラと「シモン」との情事が描かれている)も、じつはマティルデの意識のなかのことである、つまりマティルデが想像したところのフローラの部屋の様子やフローラの意識を描いているともとれなくはない(25)。しかし仮に、「フローラの物語」全体がマ? ? ? ? ?ティルデを焦点人物として語られたものだと解釈したとしても、違和感はけっして解消されない。なぜならわれわれ読者が「フローラの物語」はフ? ? ? ? ? ?ローラから聞いた話を「ぼく」が再話したものであると知っている以上、これがフローラの視点から語られない限りやはり不自然なのである。これに続く部分では、ミロ=シモンを焦点人物とする短い記述(26)もみられることを考えあわせると、違和感はむしろ強まるばかりである。また、これだけの短い部分で頻繁に焦点人物が変わると、ジュネットのいう「不定内的焦点化」(variable internal focalization)(27)の事例というよりも、むしろ全知の語りの事例のようにも思えてくる。すでに前節で確認したように、ライアンは全知の語りは「超自然な能力を前提」とすると考えた。この全知の語りにも近い語りを、一登場人物でしかない「ぼく」がなぜ行うことができるのだろうか。五、〈全知の語り手〉の存在論 前節でみたコルタサルの「帰還のタンゴ」をもとに、もう一度全知の語り手について考えてみよう。 「帰還のタンゴ」がわれわれに違和感を感じさせるのは、フローラから聞いた話を語る、等質物語世界的語り手で? ? ? ? ? ?あるはずの(あるいは、で? ? ? ? ?しかない)「ぼく」が、フローラ以外の人物の視点を自在に使い、全知の語り手にしか許されないような物語行為をやってのけるからである。作品の最後の場面では、すでに述べたように、語り手の「ぼく」は、じつはマティルデとミロ=シモンの死亡現場に救急車で駆けつけた医師であったことが明かされる。『マノン・レスコー』についてジュネットが用いた言葉を借りれば、「物語がここ、今に到達し、物語内容が物語行為に追いつく」(28)のである。最後の一節 〔……〕仰向けのシモンの胸にはナイフが刺さり、マティルデの方は、ただしこれは検死のあと明らかにされたことだけれど、睡眠薬の飲み過ぎで、その二時間後に亡くなった、救急車ですでにそこに着いていたぼくは、錯乱状態のフローラに注射を打って落ち着かせ、カルリートスに鎮静剤を飲ませてから、親族か友人が来るまでそこに残るように看護婦に頼んだのだった。(29)がわれわれ読者にいくらかでも驚きをもたらすものであるとすれば、その理由の一端はジュネットが「転説法」(metalepsis)(30)と呼ぶものの効果にもあるが(しかしこの転説法は合理的に説明しうるものである)、ここまで無人格の全知の語り手であるかのように振る舞ってきた語り手が、じつは「ぼく」という「顔」をもっていたことをわれわれが再発見することこそが、驚きの最大の理由である。 「ぼく」による語りがもたらす違和感は、それではこの語り手は自らが語る内容をどうやって知りえたのかという語りの合法性をめぐる問題と直結している。「帰還のタンゴ」の場合には、じつはこの点については巧妙に抜け道が用意されている。前節ですでに引用しておいたのだが、語り手の「ぼく」は、「ある日気がつくと、フローラがぼくにしゃべったことと彼女やぼく自身が付け加えていったこととの区別がつかなくなっていた」と、自分の語りに虚構的な脚色が施されている可能性を語りに先だって認めているのである。実際のところ、マティルデもミロ=シモンもフローラに何も語らないまま死んでしまった以上、フローラは、したがって「ぼく」も、二人の秘密を知りえるはずはない。二人の過去を知る第三者が存在したとしても、シャワーを浴びるといってフローラの部屋を出たミロ=シモンが階上のマティルデの寝室を目指したことを知る人間はいないはずである。それゆえ「ぼく」の語りは、「ぼく」やフローラの推測なしには成り立ちえないものである。69京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号 「帰還のタンゴ」のケースに限っていえば、一見全知の語りに近いように見える語りもじつは、登場人物でもある語り手「ぼく」の(あるいは情報提供者であるフローラの)創作であったのだと片づけることができるのかもしれないが、それでもなおこの事例は、ある一つの可能性を示唆し続けている。「帰還のタンゴ」の場合、マティルデとミロ=シモンの二人ともが死んでしまうため、彼らしか知らないことは永? ? ?遠に語りえないことがらとなってしまう(それゆえ、それらが語られるためには「ぼく」とフローラの想像力が必要になる)。しかし彼らが死ななかったとしたら事情は大きく違ったはずである。彼らが生き続けたならば、フローラがのちにマティルデから、あるいはミロ=シモンから事情を聞き、それを「ぼく」に話し、その結果「ぼく」がフローラの物語を脚色なしに語るということも原理的には可能となっていただろう。このことは、「超自然的な能力」を行使する語り手にしかできないと考えられている全知の語りも、語られる物語内容と物語行為との間に時間的隔たりがあり、その間の当事者から語り手への情報の伝達を合理的に可能にする「口実」さえあれば、個別化された(一人称の)語り手にもできないことではないということを示している(31)。六、結語にかえて 本稿ではここまで、ジュネット、ライアンらの議論を参照しながら、また語り手の対象性、自律性、あるいは語りの合法性といった概念を軸として、語り手のさまざまなあり方を概観してきた。あらためて整理しなおすことはしないが、一人称/三人称の語り手という旧来の分類における分水嶺が、ジュネットによる等質/異質物語世界的語り手という分類におけるそれとはずれている(すなわち一人称で自身を指し示すが異質物語世界的である語り手が存在する)ように、対象性、自律性、語りの合法性の有無の境界もそれぞれ異なっており、むしろこれらの属性の幅広いスペクトル上に、さまざまな語り手が位置しているというべきである。本論の冒頭で確認したように、語り手とはそもそも虚構的な対象でしかないがゆえに、その対象性、自律性といったものはつねに脅かされているのである。 ここまでの議論は、おもに一人称/三人称といった語り手をめぐる二分法の正当性に疑問を投げかけるものであったが、本稿を締めくくるにあたってこれまでさほど重点的に論じてこなかった語りの合法性を切り口に、一人称/三人称というもっとも古典的な区分についてあらためて考えておきたい。 本稿第四│五節では等質物語世界的語り手が全知の語りを行う可能性について考えたが、一人称で自分を指し示しながら読者の前に姿を現す全知の語り手には、すでに第一節でも触れた『トム・ジョウンズ』の語り手のように、自身の創作行為に言及する語り手も含まれる。このような〈作者の声〉をもった一人称の(しかし異質物語世界的な)語り手と、「帰還のタンゴ」の「ぼく」のような一人称であり、かつ等質物語世界的な語り手とは、後者は前節でみたように自らの全知について語りの合法性を示す必要があるのに対して、前者にはその必要がないという点で対照的である。この点にかんして、哲学者のデイヴィッド・ルイスが論文「フィクションにおける真理」のなかで述べた次の言明を手がかりに考えてみよう。 コナン・ドイルは、自分自身で目撃した出来事の忠実な回顧録を公表しようとするワトスンなる医師であるふりをしている。しかし三人称の物語もこれと本質的に異なるわけではない。作者は、どのようにそれを知ったかはいわないが、自分が何らかの方法で知るところになった物事についての真理を主張していることを自称する。そのために、「……そしてこの物語を語る者は誰もいなくなった」という一節で終わる三人称の物語における矛盾にも通じる語用論的パラドクスが存在するのである。(32)ルイスによるこの一節が示唆的であるのは、サールが指摘するような「ふり」にかんしての一人称の物語と三人称の物語の連続性を指摘している点だけでなく、物語を語りうる資格をもつ人間がいなくなる(したがってその物語は語られえない)という事態にも比すべきような「語用論的パラドクス」が三人称小説全般に存在していることを指摘している点である。 ルイスは具体的な作品を明示していないが、彼がここで例としてあげている「「……そしてこの物語を語る者は誰もいなくなった」という一節で終わる三人称の物語」とは、われわれがいう語りの合法性にかんする違犯が認められる物語のことであろう。しかしこれをそのまま、三人称物語にはこのような「矛盾に?? も通?? ?じる〔akin to〕語用論的パラドクス」がみられるという主張と結びつけて、三人称物語全般には語りの合法性にかんする違犯が存在すると考えるのは70論文[「語り手」の概念をめぐって]河田 学早計である。なぜなら、あまりに明らかなことだが、一般的な三人称小説を読むさいにわれわれ読者は、たとえ序文なども含めた作品中に語りの合法性を担保する記述、すなわち語りの口実が与えられていなかったとしても、それを違犯であるとは感じないからである。その意味では、ルイスのこの一節は、一人称物語と三人称物語とのサール的連続性を指摘していると同時に、語りの合法性にかんする断絶を指摘したものとも考えることができる。全知の語りの合法性にかんして一人称/三人称が非対称であることは前段で述べたとおりだが、一般的に三人称の物語は、潜? ? ? ? ?在的にはルイスがいう語用論的パラドクスを孕んでいるにもかかわらず、一人称の物語と異なり語りの口実を必要としないのである。その意味で、両者は語りの合法性の要請について基準を異にするのである。 またこの点において、三人称の語り手は作者の声をもつ一人称の語り手(本稿で挙げた例でいえば『トム・ジョウンズ』の語り手)と連続的である。ここにもジュネットによる等質/異質物語世界的語りという再分類の正当性をみることができるし、また(とくに全知の)非人格の語り手を作者と同一視するあらたな根拠をみいだすことも可能である(表1参照)。この考察をさらに敷衍すると、これら二つの物語形式は、小説に寄せられたリアリズム的要請に応える二つの異なる形式に対応していると考えることもできるかもしれない。すなわち等質物語世界的語りとは、個人の〈経験〉の(擬似的)リアリティーによって小説的な本ヴ レサンブランス当らしさを獲得しようとする形式であり(もっともらしさを装うための〈引用〉という形式が、手記、日記、書簡といったもっぱら一人称の言説を対象とすることに注意せよ)、異質物語世界的語りとは、作者の声をもつ語り手が虚構的ごメ イク?ビリーヴっこ遊びのいわば〈法〉を宣言することにより、読者をその渦中に巻きこもうとする形式なのではないだろうか。そう考えると、たとえばイギリスにおいては、リアリズム的な小説が誕生した十八世紀においてすでにこれら二つの形式が誕生していたこと(デフォーとフィールディングを比較せよ)はますます興味深いことのように思われる。註(1) 「語り手」をはじめ、物語論の領域で使われる用語の多くは英語│仏語間で容易に交換可能なものが多いので、本稿で術語の原語を示すさいは、引用文中をのぞき、その用語がはじめて提案された言語にかかわらず英語の綴りを示すことにする。(2) コナン・ドイル「緋色の研究」、『詳注版シャーロック・ホームズ全集』二、ベアリング?グールド解説・注、小池滋監訳(ちくま文庫、一九九七年)一一頁。(3) 本節における、小説を読むさいの二重の身ぶり、またテクストの実際の発信者としてである経験的作者から乖離した存在として「語り手」がテクストから遡及的に措定されるという事実自体が、フィクションとしての小説テクストを特徴づける徴候であるという議論は、拙論「語ナ レーションる行為の存オントロジー在論」(大浦康介編『フィクション論への誘い』世界思想社、近刊)の結論である。本稿は右記の論考の事実上の続編にあたるものだが、独立して読めるよう両者の間で内容が一部重複していることをお断りしておく。(4) Gerald Prince, Dictionary of Narratology (Lincoln: University of Nebraska Press,1987) pp. 31, 97.(5) Ge\u0027rard Genette, Discours du re\u0027cit: essai de me\u0027thode, in Figure III (Paris: Seuil, 1972)p. 252.(6) この点はミーケ・バルも強調している(Mieke Bal, Narratology: Introduction tothe Theory of Narrative, third ed. (Toronto: Toronto University Press, 2009) p. 21.)。(7) Genette, op. cit., p. 252. ウェルギリウス、デフォーからの引用はそれぞれ、ウェルギリウス『アエネーイス』泉井久之助訳(『世界古典文学全集』第二一巻、筑摩書房、一九六七年)五頁、および、デフォー『ロビンソン・クルー 表1 語り手のあり方と語りの口実の有無作品例ジュネット的区分語りの口実三人称一人称作者の声で全知の語りを行う自分の経験のみを語る登場人物の声で全知の語りを行う『感情教育』『トム・ジョウンズ』シャーロック・ホームズ(「帰還のタンゴ」)異質物語世界的等質物語世界的不要要71京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号ソー』(上)平井正穂訳(岩波文庫、一九六七年)一一頁。傍点は河田による。(8) フィールディング『トム・ジョウンズ』(一)朱牟田夏雄訳(岩波文庫、一九五一年)一三│一四頁。傍点は河田による。(9) ただしこのうちルノンクール侯爵は、『マノン・レスコー』第一部の末尾に再登場する(注28も参照)。また、これら三例は、ジュネットの用語を使うならば異なる「物語の水準」(narrative level)を内包する作品であるから、その扱いについては注意する必要があるかもしれない(Genette, op. cit., pp. 238-243.)。(10) Ibid., p. 253.(11) Ann Banfield, Unspeakable Sentences: Narration and Representation in theLanguage of Fiction (London: Routledge \u0026 Kegan Paul, 1982).(12) Ge\u0027rard Genette, Nouveau discours du re\u0027cit (Paris: Seuil, 1983) p. 68. なおジュネットがあげているページ数はBanfield, op. cit. への言及。(13) John Searle, “The Logical Status of Fictional Discourse” (1975), reprinted inExpression and Meaning: Studies in the Theory of Speech Acts (Cambridge:Cambridge University Press, 1979) pp. 58-75.(14) Ibid, p. 72. サールはシャーロック・ホームズ作品を例にとり、作者であるドイルは「たんに断定を行うふりをしているだけでなく、アフガン戦役の退役軍医であり、友人シャーロック・ホームズについて断定を行う医学博士ジョン・ワトスンであるふりをしている。すなわち、一人称の物語において作者は、しばしば断定を行う他の誰かであるふりをするのである」と述べている。(15) Marie-Laure Ryan, Possible Worlds, Artificial Intelligence, and Narrative Theory(Bloomington: Indiana University Press, 1991) pp. 65-66.(16) 語り手の分類に使われてきた「一人称」「三人称」という語はもちろん文法用語からの借用なので、ここにみられる「impersonal」という語も文法用語と考え「非人称」と訳すことも可能だが、少なくともライアンの議論においてはimpersonal な語り手とはまさに人格をもたない語り手のことであるから、本稿では岩松正洋氏の翻訳(『可能世界・人工知能・物語理論』水声社、二〇〇六年)に倣い、「無人格」と訳すことにする。(17) Ibid., pp. 67-68.(18) Ibid., p. 70. ライアンははっきりとは述べていないが、ここでライアンがいう「無人格の語り手」には、これに先行する部分で述べられている無人格の語り手と全知の語り手の両方が含まれていると考えられる。(19) Ibid., p. 67.(20) 書簡体小説にみられる〈編者〔e\u0027diteur〕としての語り手〉にはジュネットも言及している(Genette, Discours du re\u0027cit, p. 240.)。(21) 『蜘蛛女のキス』(野谷文昭訳、集英社文庫、二〇一一年)は、同性愛者モリーナと政治犯として収監されたバレンティンとの獄中での会話を軸に物語が進んでいくが、語り手は二人の会話を引用するのみであり(モリーナの仮釈放以降の出来事は「TISLによる電話盗聴の協力を得て、CISLによる監視の結果に基づき作成された」報告書の引用という形で語られる)、語り手自身の言葉で語られるのはこれらに付された(おもに精神分析的な事項にかんする)学術書風の注釈のみである。本文で触れたように、『蜘蛛女のキス』の語り手は三人称的ではあるのだが、この注釈の存在によりその自律性が強調されているように思われる。一方この注釈(と警察署の報告書)がもしなかったとしたら、登場人物のせりふの引用のみから成り立つこの作品は戯曲にぐっと近づくことになり、もはや〈小説〉とは呼べないのかもしれない。この問題は非常に興味深いのだが、本稿ではこれ以上立ちいることはできない。(22) Ryan, op. cit., p. 71.(23) この作品は本学で筆者が担当するゼミ(二〇一二年度文芸表現学科「総合演習Ⅰ・ⅡD」)でも会読のテクストとしてとりあげた。そのさいの学生諸君の発言は、本論執筆中であった筆者に大きな示唆を与えてくれた。ここに記して深謝の意を表したい。(24) フリオ・コルタサル「帰還のタンゴ」(『愛しのグレンダ』野谷文昭訳、岩波書店、二〇〇八年)九一│九二頁。(25) 本作では登場人物の意識を描くのに、読点だけで結ばれた長いセンテンスが多用されている。当該箇所もこのような文体で描かれており、焦点人物がフローラへと移ったと断言することは危険かもしれない。参考までに引用しておこう。 彼?女?〔マティルデ〕は? ? ? ? ?確信した、階下の扉はもう開いてしまったのだと、72論文[「語り手」の概念をめぐって]河田 学ミ?ロ?はもう家に入り、フローラの部屋にいて、フローラと話をしているに?ち?? ? ? ?がいないと、あるいはもう彼女の服を脱がせ始めたか?も?し?? ? ?れない、なぜならフローラにとってミロがそこにいる理由はそれしかないは? ? ? ? ?ずだったからだ、彼が部屋に入り込んだのは、キスをしながら彼女の服を脱がせ、自分も服を脱ぐためだった、いいだろう、こうやって触らせてほしいんだ、するとフローラは抵抗しながら、今日はだめよ、シ・ ・・モン、怖いわ、放して、けれどシ・ ・・モンは慌てずに、彼女をゆっくりとベッドに組み伏せると、髪に何度もキスをして、ブラウスの下の胸をまさぐり〔……〕フローラは最初の涙を流しながら身を任せる、上・ ・・・・・・・・・・・・・・・の階に聞こてしまうかもしれない不・安・、マティルデ奥・様・かカルリートスが、だめだ、もっと小さな声で話すんだ、もうこうしてもいいだろう〔……〕(コルタサル、前掲書、一〇八│一〇九頁、傍点は河田) 傍点を振った部分を追っていくと、少なくとも「…… は? ? ? ? ? ? ? ?ずだったからだ」まではマティルデが焦点人物で、少なくとも「けれどシ・ ・・モンは……」以降はフローラが焦点人物であるように思われるが( 傍?点?部分はマティルデ視点を特徴づける表現、傍・点・部分はフローラ視点を特徴づける表現である)、すべてがマティルデの意識のなかであるという可能性は否定できない(ただし、これに続く部分を読むと、フローラと「シモン」との情交自体がマティルデの妄想だったとは考えにくい)。(26) 「彼〔ミロ=シモン〕は屋敷にさらに静けさを加えようとするかのように音を殺してドアを閉め、裸のまま台所と広間を通り抜けると階段の前で立ち止まり、位置を探りながらそっと一段目に足を掛けた。〔……〕三段目に来ると、寝室のドアの下に光の筋ができているのが見えた。」(前掲書、一一〇頁) このときミロ=シモンは一人きりであることに注意されたい。(27) Genette, op. cit., pp. 206-207. 不定内的焦点化の例としてジュネットが挙げているのは、焦点人物がシャルル↓エンマ↓シャルルと順に変わっていく『ボヴァリー夫人』。(28) Ibid., p. 238. 本稿第一節でも触れたアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』には、「私」(本作を含む連作『ある貴族の回想録』全体の語り手であるルノンクール侯爵)が騎士グリュウとの二度の出会いを語った部分があり、それに続く部分では騎士グリュウ自身が語り手となり自身とマノンとの物語を語るのである。『マノン・レスコー』では、外枠部分と本編とで語り手が異なっており、さらにジュネットの言を借りれば「第二の物語〔グリュウ本人による物語〕の語り手が、第一の物語〔ルノンクール侯爵による物語〕の登場人物であり、第二の物語を産出する物語行為が第一の物語のなかで語られる出来事となっている」のである。「帰還のタンゴ」においては、語り手は一貫して「ぼく」であり、それゆえジュネットが指摘するような語りの水準の二重性はみられない。(29) コルタサル、前掲書、一一一頁。(30) Genette, op. cit., pp. 243-246.(31) じつはライアンも、個別化されているにもかかわらず全知である語り手が登場する作品として、『失われた時を求めて』に言及しているのだが(Ryan, op.cit., p. 67)、そこでどのように語りの合法性が保持されているかは検討されていない。(32) David Lewis, “Truth in Fiction” (1978), reprinted in Philosophical Papers, vol. 1(Oxford: Oxford University Press, 1983) p. 266.73京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号 Just as characters of novels are fictional entities, soare the narrators. When one maintains that every narrativehas its narrator, this assertion is enabled only by fictionallypositing the existence of the narrator retrocessively from thetext. By establishing narrators us fictional objects, this paperaims to explore the wide variety of narrators as well as theessence of narration. The first chapter, by re-examining Ge\u0027rard Genette’sproposal to replace the traditional distinction of the firstperson/third-person narratives with the new dichotomy ofhomodiegetic/heterodiegetic narratives, indicates thenecessity of discerning the objectness and the autonomy ofnarrator: narrators possess objectness as long as they can bepostulated as such (if only fictionally), while narrators areautonomous if and only if they are distinguishable from theempirical author. The second chapter discusses Marie-Laure Ryan’sconcept of “substitute speaker” and her criticism againstAnn Banfield’s “No-Narrator Theory,” which, as its namesuggests, denies the possibility of attributing some kinds offictional discourse to narrators. Ryan partly concedes withBanfield but the grounds for the compromise seem to bedifferent from those for Banfield’s arguments: whileBanfield denies, in our words, objectness to narrators,Ryan’s concern is that impersonal narrators lack autonomyand that omniscient narrators, who have unlimited access toany character’s mind, do not have what one might calllegitimacy of narration. The next two chapters are focused on the omniscientnarrator. Through the analysis of Julio Corta`zar’s “ReturnTrip Tango” (Tango de vuelta), it is suggested thatomniscience is not necessarily proprietary to impersonalnarrators, but that a personal, individuated, homodiegeticnarrator can be also omniscient if reasonable “excuse” forhis knowledge is given in his own narrative. While the above discussions show that first-personand third-person narratives (or homodiegetic andheterodiegetic narratives) are continuous rather thandiscrete, these two groups show a clear contrast when thelegitimacy of narration comes into question. The lastchapter examines this aspect of narration and locate theissue of narrative person in the historical context.Reconsidering the Narrator: Genette, Ryan, and BanfieldKAWADA Manabu"}]}, "item_10002_version_type_43": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "河田, 学"}, {"creatorName": "Kawada, Manabu", "creatorNameLang": "ja-Kana"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "70", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2013-07-31"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": "GENESIS16_kawata.pdf", "filesize": [{"value": "1.1 MB"}], "format": "application/x-download", "future_date_message": "", "is_thumbnail": false, "licensetype": "license_11", "mimetype": "application/x-download", "size": 1100000.0, "url": {"label": "PDF", "url": "https://kyoto-art.repo.nii.ac.jp/record/5/files/GENESIS16_kawata.pdf"}, "version_id": "b59a1d29-48ee-40e3-87c9-4d4de635f71c"}]}, "item_language": {"attribute_name": "言語", "attribute_value_mlt": [{"subitem_language": "jpn"}]}, "item_resource_type": {"attribute_name": "資源タイプ", "attribute_value_mlt": [{"resourcetype": "departmental bulletin paper", "resourceuri": "http://purl.org/coar/resource_type/c_6501"}]}, "item_title": "「語り手」の概念をめぐって", "item_titles": {"attribute_name": "タイトル", "attribute_value_mlt": [{"subitem_title": "「語り手」の概念をめぐって"}, {"subitem_title": "Reconsidering the Narrator : Genette, Ryan, and Banfield", "subitem_title_language": "en"}]}, "item_type_id": "10002", "owner": "13", "path": ["11"], "permalink_uri": "https://kyoto-art.repo.nii.ac.jp/records/5", "pubdate": {"attribute_name": "公開日", "attribute_value": "2013-07-31"}, "publish_date": "2013-07-31", "publish_status": "0", "recid": "5", "relation": {}, "relation_version_is_last": true, "title": ["「語り手」の概念をめぐって"], "weko_shared_id": -1}
「語り手」の概念をめぐって
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PDF (1.1 MB)
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公開日 | 2013-07-31 | |||||
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タイトル | 「語り手」の概念をめぐって | |||||
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資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
著者 |
河田, 学
× 河田, 学 |
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著者別名 |
Kawada, Manabu
× Kawada, Manabu |
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書誌情報 |
京都造形芸術大学紀要 en : Genesis 号 16, p. 63-73, 発行日 2012-10 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 京都造形芸術大学 | |||||
書誌レコードID | ||||||
値 | AN10448053 | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
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