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同センターでは毎年度、ACOPに関係する活動をまとめた『アート・コミュニケーションプロジェクト報告書』(1)を発行しており、そこには過去七年間にわたり、多様な学問分野の研究者から分析・考察が寄せられている。また、関連する対話型鑑賞法の研究論文や、ACOPの源流となったVTC(VisualThinking Curriculum)およびVTS(Visual Thinking Strategies)(2)についての研究などといった先行事例を参照するならば、本稿でも比較的容易に研究方針を策定することができるだろう。 しかし私には、ACOP │ 対話型鑑賞について考察する場合、そのような分かりよい判断を保留させる、ある種の困難が憑きまとっているようにも思われる。例えば、過去の報告書から以下のような問いを引いてみよう。 「ACOPをやっていく中で、学生がポーンッと変わる瞬間がある。それを逃さずにつかまえて欲しい。その変わる瞬間っていうのが何なのか。」(3) 「安易な定量評価に陥らず、『なにをもって対話型鑑賞の理解とするか』(……)」(4) 私たちは、これらの問いにうまく応答することができるだろうか。というよりも、い? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?ったいここで具体的に何が問題になっているかを、うまく把握できているだろうか。私たちが「対話型鑑賞」と言うとき、実は各々が暗黙の内に異なる複数のコミュニケーション・モデルや学びのモデルを想定しており、それぞれの議論が単にすれ違うという非生産的な事態に陥ってはいないだろうか……。本稿はこのような問題意識から出発している。 したがって本稿では、特定の課題に向けての考察ではなく「そもそも何が問題なのか」と問い返し、ACOP │ 対話型鑑賞について、その基礎に潜在している問題群を明らかにすること ││ 研究を始めるための地ならしをすること ││ を試みたい。問いの所在を巡る考察は、一方でACOP │ 対話型鑑賞固有の議論として行われながら、他方で教育、芸術といった巨大な概念への問い直しとしての様相も呈することになるだろう。二、対話・他者・コミュニケーション 「対話型鑑賞」の語は、すでに日本の美術教育界においては耳慣れたものである。しかし、そもそも「対話型鑑賞」というイディオムにおける「対話」の謂は、何を指すのか、どのような背景理論がそこに措定されるのか、といったことはほとんど問いに付されない。本章ではまず「対話型鑑賞」の語を解体し、「対話」についての原理的な考察を試みる。(一)公共圏(市民との対話) 「対話」の語についての言及がなされている数少ない対話型鑑賞法の研究論文として、長井理佐の「対話型鑑賞の再構築」が挙げられる(5)。長井は同論文において、対話を通じて何が目指されるべきかについての議論が充分になされないまま、手段のみが形骸化することへの懸念を示し、対話型鑑賞が「到達すべきモデル」の提示を試みている。さしあたり、「対話」の語についての考察がなされている部分を引用してみよう。191京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号 「ハーバーマスは、人々が対話をし、了解を求めあう時、暗黙裡に前提とする、文化的に伝承され言語的に組織化された日常的な知のストックを生活世界と呼んだ(……)こうした知は、対話をする過程で明るみにされ、同時に、議論の対象へと開かれ更新される可能性を持つ。いわば日常的な知は、ある安定した知のストックであるとともに組み替えの機会へと開かれた存在でもあるのだ。このような対話の側面を考えるとき、ハーバーマスの『対話』を、作品をめぐる対話に援用して捉える事は有益ではなかろうか」(6) 周知のように、ハーバーマス(Jurgen Habermas)は市民の対話による相互主観的なコミュニケーションを、公共性の成立に不可欠なものとしており(7)、その意味で、長井の指摘は全く妥当なものであると言える。『公共性の構造転換』にて公共的コミュニケーションのある種の理念型として挙げられた、十八世紀~十九世紀の「サロンやクラブや読書会における民間人の議論」(8)に比するような場(公共圏)を、対話型の鑑賞体験のうちに見出すことには、何らの不自然さもない。 しかし、私たちは一方で、長井によるハーバーマスの対話概念の援用とそこから敷衍される「到達するべきモデル」 ││ 対話型鑑賞の場(公共圏)において私たちは他者と出会い、弁証法的なコミュニケーションにより日常知を組み替える ││ を理想的な対話の場として肯定しつつ、他方で、本当にそのようなユートピア的空間に悠々と安らうことが叶うであろうか、という疑いを拭うこともまたできない。 例えば、ハーバーマスは同書で「今日では、対話そのものでさえ管理されている」(9)として、文化財やそれにまつわる討論でさえ消費社会においては商品として流通してしまい、公共性の崩壊を招いていると述べている。果たして対話型鑑賞はそのような「消費されるサービス商品としてのパッケージ化」を免れているか(もしくは免れる必要があるか)、と問うてみること。あるいは、より近年の社会学でなされている公共性の議論 ││ リチャード・ローティ(RichardRorty)が『偶然性・アイロニー・連帯』で提起した公私の区別や、相対主義の問題など(10)││ を参照し、別の角度から問うてみること……。 とはいえ私たちには、ここでそれらの膨大な疑念の糸を解し、整序するだけの準備はない。そしてなにより、本稿の企図は問題に回答することではなく、問題に遭遇することである。その企図に従うなれば、ここで私たちが行うべきは、ユートピア的な対話の場に取り憑く疑念のうち、もっとも根底的なものとは何か、という問いの選定/剪定であろう。(二)公共圏 │ 外(言葉が通じない相手との対話) いましがた、私は何の註釈もなく「他者と出会う」と記述した。長井の論文においても、対話型鑑賞は日常知の組み替えの場であると同時に、「『他者性』へと意識を開き、そうした『他者性』との関係からまた自分を捉えなおす場でもある」(11)と述べられているように、一般に対話においては自らとは異質なコンテクストを持った「他者との出会い」が要請される。 しかし、そもそも他者とは何であろうか。私たちは、本当に対話において他者に開かれているのだろうか。本節では、対話/他者の様態を原理的に問いつめている柄谷行人の議論を参照し、問いの研磨を続けよう。* 柄谷は『探求Ⅰ』にて、ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)の「言語ゲーム」概念と、クリプキ(Saul Kripke)によるウィトゲンシュタイン読解を参照しながら、次のように述べている。 「しかし、私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称的である」(12) ウィトゲンシュタイン │ 柄谷によると、他者とは「外国人や子供、あるいは精神病者」のような「私の言葉をまったく知らない者」(13)であり、対話とはそのような他者との間で起こるコミュニケーションである、否、で? ? ? ? ?なくてはな?ら?な?い?。どういうことだろうか。 これはつまり、最初に言葉の意味という自明のルールがあると考えるのでは192研究ノート[ACOP ─ 対話型鑑賞についての基礎的考察 ── 共同体 ─ 外的学びへの試論 ──]北野 諒なく、その都度の言葉のやりとりから事後的に意味やルールが規定されると考える態度 ││ 言語とは他者に通用して初めて意味を成すものであり、自分自身が勝手に意味を決めることは許されない ││ である。この態度を採用するならば、実は私たちは、いつでも言葉の意味やルールを確信できないまま他者に話しており、原理的には常に言葉の通じない異国で対話を試みているということになる。 この言表は非常に危機的なものである。 かような「対話」においては、ハーバーマス │ 長井の対話概念は根底的に侵犯されてしまう。「『他者性』へと意識を開き、そうした『他者性』との関係からまた自分を捉えなおす」とはいえ、あくまでその他者との対話はある共同体の中のルール(対話型鑑賞の場というルール) ││ 「言葉が通じる相手」を前提にしているのだから……。 私たちはしかし、柄谷のパースペクティブをどのように受容することができるだろうか。このような議論は、あまりに抽象的であり、現実的な対話型鑑賞の運用では機能しない概念的戯れであるのだろうか。「対話」の語を巡る問いは、ハーバーマス │ 長井の理念的モデルと、ウィトゲンシュタイン │ 柄谷の原理論の両極間で宙づりになり、そこにおいて、また別の形に変成しつつある。 次節では、この変形された問い ││ ACOP │ 対話型鑑賞において、私たちはどのような対話/他者モデルを採用すべきだろうか ││ を、ACOPについての伊達隆洋の議論に接ぎ穂して、さらなる問いの展開/転回を図る。(三)ACOP(穴に向かって呼びかけること) 考察を進めるまえに、これまでの要約を含意しつつ、少し議論の補強をしておこう。先に挙げた「ハーバーマス │ 長井の理念的モデル」を教育学のパースペクティブから語り直し、おおよその整理を施しておく。 ACOP │ 対話型鑑賞の諸々の先行研究において ││ というよりも、広く一般の学習論においても ││、学習者同士の相互主観的な関わりによって、学習者と学習者の「間」あるいは「場」に学びのモーメントが現出するという観点は、私たちにとって馴染み深いものである。 例えば、二〇一〇年度の報告書所収の平野智紀による論考「学習環境デザイナーとしてのナビゲイター ││ ナビゲイションの定性的分析」においては、ジーン・レイヴ&エティエンヌ・ウェンガー(Jean Lave and Etienne Wenger)の「正統的周辺参加(LPP │ legitimated peripheral participation)」論(14)を参照しつつ、ミュージアムの(ひいてはACOP │ 対話型鑑賞の)学習環境について、以下のように述べられている。 「心理学において、他者との相互依存の関係性の中で、コミュニケーションによって共有化されたものを知と考える社会構成主義の立場では、Lave\u0026Wenger(一九九一=一九九三)以来、学習を『共同体への参加』として捉える考え方が広く普及してきている。学習とは、知識を頭の中に詰め込むことではなく、共同体が行っている活動に主体的に参加していき、だんだんと中心的な参加者へと変わっていくことであると考えられている」(15) 私たちはここに、「公共圏」概念の、学習論へのパラレルな適用(共同体におけるコミュニケーションが公共性を成立させる≒共同体におけるコミュニケーションが学びを成立させる)をみることができるだろう。つまり「ハーバーマス │ 長井の理念的モデル」はLPPの学習モデルと相似形をなしており、教育学の観点からしても、両モデルはACOP │ 対話型鑑賞の有力なコミュニケーション・モデル、学習モデルの一つとして採用可能なのである。 そして実際に、これまでのACOP │ 対話型鑑賞に関する先行研究の多くは、基本的にはこれらのモデルを援用し、その実証と理論の精緻化を行ってきたと言えるだろう。議論の整理のため、以降この両モデルを基本的に同根のものであるとみなし、併せて「公共圏 │ LPPモデル」と呼ぶことにしよう。* しかし他方で、柄谷の対話概念の不可能性 ││ 共同体を転覆しかねない、言葉の通じない相手との対話 ││ を文字通りに受け取るならば、私たちはその時、ACOP │ 対話型鑑賞においてどのようなモデルを想定することができるだろうか。このような問題を扱い得る、ほとんど唯一の参照点として、伊達隆洋の議論が挙げられる。伊達は、過去の『アート・コミュニケーションプロジェクト報告書』に寄せた論考「鑑賞教育プログラム「ACOP」考」に193京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号て、以下のように述べている。 「ACOPの作品鑑賞は、大きく分けて『作品』、『他人』、『自分』という明示的な三つの要素に加え、『穴』が絡んで展開していると筆者は考えている。ACOPはコミュニケーションということをその基盤においているが、ここでいうコミュニケーションとは、『作品』、『他人』、『自分』という三者間での言葉や意味の伝達ということではない。三者は、それぞれがお互いを直接的に知ることはできない。そして、その断絶であり空隙が『穴』である」(16) 「穴」とは、自明のものと思われていた共同体のルール、あるいは自己のアイデンティティを脅かすアクシデントであり、そして、そのような「穴」を覗き込むことは、「自分にとっての当たり前が揺らぎ(……)自分の不能を突き付けられる」(17)壮絶な体験となる。 自己、他者、作品の間に不可知の「穴」を体験し、自らの「不能」を認めること。柄谷 │ 伊達の議論をパラフレーズし、有り体に表現するなれば、それはつまり対話の場における「コミュニケーションの失敗」を不可避、不可欠の要素として認めよ、ということになる。そのような、否定の契機が対話の場に畳み込まれたモデルを、ここではさしあたり「失敗のコミュニケーション・モデル」と名付けておこう。(18) それはしかし、単に不能や失敗に充ちた破滅的なコミュニケーションを意味するのではない。むしろそのようなアクシデントこそが、対話をスリリングな学びの場として活性させる条件であり、「穴」の暗がりと対峙する体験こそが、自己の解体と再創造という鮮烈な教育的価値 ││ それはほとんどイニシエーション(通過儀礼)といってもよい ││ を帯びるのである。例えば、伊達は複雑系科学における「創発」のメタファーを借りながら、学生が質的な跳躍を遂げる一挙的瞬間を次のように表現している。 「しかし、彼ら(筆者註:ACOPを受講する学生たち)はACOPを通じて、物事が自己完結しない事態に直面する。「穴」が入り込むことによって、彼らの中でこれまで個別に完結していたものは、その自明性を失って境界が薄れ、一種の混乱状態を迎える。(……)しかし、この混乱状態は、彼らの中で点在していたものが、境界がぼやけたおかげで他の要素と互いに結び付くことができる状態になったということでもある。(……)何らかの引き金がはたらき、点在していたものが有機的な組織として組み変わったのが「変わる瞬間」ではないだろうか」(19) ACOP │ 対話型鑑賞の考察を阻む問題を摘出しようとする試みは、「ACOP │ 対話型鑑賞において、私たちはどのような対話/他者モデルを採用すべきだろうか」という根底的な問いの一つを明るみにし、さらには暫定的な選択肢 ││ 「公共圏 │ LPPモデル」と「失敗のコミュニケーション・モデル」││ を見出しつあるようだ。ACOP │ 対話型鑑賞を考察するための地盤は均されつつある。 この両モデルは必ずしも相反するものではなく、むしろ「穴」の存在に自覚的・肯定的であるか否か、という一点のみが両者をわかつ分水嶺であると言える(暫定的なものはであるが、大まかな図示を試みた?図1?)。無論、これらの区分の妥当性・必然性はさらなる検討を必要とするとはいえ、ここでのモデル化の試みは概念的議論をいたずらに弄しているわけではない。 例えば、ACOPにおいては「プッシュ」と呼称されている方法(総じて鑑賞者に対する挑戦的問いかけを指す。例えば、鑑賞者の発言から矛盾点を見つけ出し、問い直したり、意見の中から対立点を取り出し、議論の俎上にのせたりすること)があるが、「失敗のコミュニケーション・モデル」に立脚するなれば、これを「対話場面に『穴』=否定や失敗を創造的契機として持ち込む技法」であると明瞭に分析できるだろう。本稿での議論は、このように理論と実践の往還を容易にする、交通整理の役割を担うことができるはずである。 さてしかし、ここからさらに問いを重層化するためにも、私たちは他者論/コミュニケーション論からの問いかけを一時停止するべきだろう。私は本節にて「穴」を覗き込むことの「教育的価値」を述べた。とはいえ、そのような体験の教育的価値を担保する議論を、まだ私たちは知らない。次章は教育学 │美術教育の観点に移行し、考察を複線化していこう。194研究ノート[ACOP ─ 対話型鑑賞についての基礎的考察 ── 共同体 ─ 外的学びへの試論 ──]北野 諒三、教育・芸術・人間 自らの不能と相対し、自己の変容と生成を潜り抜けること ││ かような「穴」の教育的価値を、一般的な「教育」のパースペクティブのもとに見定めようとすると、私たちは直ちに困難に直面する。それは言うなれば、成人を証だてるイニシエーション ││ 例えば断崖から海に身をなげること ││ の教育的効果を点数化しようとするような試みであるからだ。 質的飛躍は量的評価を逸脱する。本章ではこの困難に対し、まずは矢野智司の議論を手がかりに考察していく。矢野のパースペクティブは、「教育」という巨大な概念の臨界点を私たちに示してくれるだろう。(一)発達/生成 矢野は『贈与と交換の教育学』において、「教育」の概念そのものの更新 ││ というよりもその起源からの逆照射 ││ を迫る議論を展開し、「発達としての教育」「生成としての教育」という区別を導入している。少し長くなるが、まずは当該のパッセージをほぼそのまま引用してみよう。 「一般的な教育のイメージにしたがって教育を定義するなら、教育とは共同体において未熟な成員を一人前にすることである。もちろん教育学者は、この一般的なイメージを、より洗練された教育概念を駆使することによって、精密な教育の定義を発展させてきた。その代表的なものは『発達』や『社会化』に関する用語群で、これらによって教育という複合的な事象を、客観的に観察し記述し分析し評価することの可能な現象群へ翻訳し直してきた。(……)このようなイメージを基にした教育観を『発達としての教育』と呼ぶことにしよう」(20) 「この自己の溶解という体験は、『私の経験』として意識によって対象化することができない。それというのも、溶解体験では、主体が溶解するわけだから、対象との距離はなくなり、既成の言葉によっては言い表すことのできない体験となる。(……)しかし、このような概念化の困難なところにこそ体験の価値はある。つまり意味として定着できないところに、生成(脱人間化)としての体験の価値がある。(……)このような体験による教育図1 公共圏―LPP モデル/失敗のコミュニケーション・モデル公共圏 - LPPモデル失敗のコミュニケーション・モデル穴穴穴a. a.b.c.円形 : 対話型鑑賞の場(学びの共同体)a. : 相互主観的コミュニケーションによって、対話型鑑賞の場への十全的参加へ向かうベクトルb. : 「穴」との遭遇c. : 対話型鑑賞の場からの逸脱 / 外部との接触(そこから導かれる共同体のルールの解体 / 再構築)195京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号を、『生成としての教育』と呼ぶことにしよう」(21) この発達/生成の区別を施すことで、私たちはACOP │ 対話型鑑賞で起こる学びのモーメントを、より明瞭に掴まえることができる。一般的な教育=「発達としての教育」とは、近代民主主義社会の構成員を効率的に再生産することであり、学習者の発達は、その教育目標に照らして適切に評価され、常に教育の正当性が確認されねばならない。 すでにみたように、「穴」はこのような教育の定義と不協和である。「穴」の体験は後者の「生成としての教育」に割り当てられる。そしてそのような体験は「意味として定着できない」=「一般的な教育の観点からは評価することができない」が、それだからこそ特権的な教育的価値を生むのである。 加えて矢野の議論から読み取るべきは、これまでは、あるネガティブなトーンをもって「穴」について語ってきたが、「生成としての教育」の観点から「穴」を捉えるならば、その体験は自己喪失や不能に限られるわけではない、ということである。何の有用性もない遊びへの没頭、作品の鑑賞の中で訪れる唐突な閃き、私の言葉が微塵も通じない他者との対峙 ││ 極論すれば、それは自己の「溶解体験」をもたらすものであれば、何でもありうる。「穴」はそこかしこに複数その口を空けている。 発達/生成の区分。「穴」の複数化。「穴」を巡る学びの様態について私たちは幾つかの手がかりを得つつあるようだ。しかし、それは同時に、むしろより高解像度で問題の輪郭が映し出されるようになったことも意味する。例えば矢野は、遊び・芸術作品・自然などを範例とする「生成としての教育」における体験が、容易に労働のアナロジーである「発達としての教育」に転化されていく事態に、以下のように警鐘をならしている。 「『発達としての教育』が、人が成長していくうえで不可欠なことはまちがいないにしても、『発達としての教育』が原理となる学校教育では、遊びのような体験もすべて有益な『経験』として発達の論理に回収されてしまう。(……)遊びの中心は、そのような『経験』としての側面にはない。遊びはもともと有用性の秩序を否定し、エネルギーを惜しげもなく過剰に蕩尽する自由な行為である。遊びは遊ぶために遊ぶのであって、遊びを超えるどのような目的ももっていない」(22) 「穴」と対峙する体験を、何か到達すべき目的のための手段として捉えた瞬間、それはもっとも鮮やかな可能性を失うことになる。ここにおいて、私たちはACOPの根源的な困難をなすもうひとつの問い ││ 「ACOP │ 対話型鑑賞での学習はどのように評価すべきか」 ││ に行き当たる。どういうことか、詳しく問いを解剖してみよう。 例えば、ACOPの源流であるVTC │ VTSを参照するならば、そこではむしろ、実証的な学習効果が積極的に評価/研究されている。それは、VTSの理論的支柱を成すアビゲイル・ハウゼン(Abigail Housen)の議論 ││ ピアジェ(Jean Piaget)やヴィゴツキー(Lev Vygotsky)らの理論を援用して構築された「美的発達段階」論 ││ を一瞥するだけで明らかである。(23) VTSにおいてはまた、美術作品の鑑賞能力のみならず汎領域的な学習能力である批判的思考力が涵養されることが、統計学的なデータによって実証されている(24)。そのような「発達としての教育」=「役にたつ能力」を獲得するという効果は、もちろんACOPにも期待されるものであるだろう。 私はここで、ACOPは「発達としての教育」の側面を排し、「生成としての教育」=「穴」に懸けるべきであると主張しているのではない(逆もまた然り)。当然、教育にはその両側面が必要であり、どちらかを捨象するような視野狭窄は避けなくてはいけないし、両者は必ずしも相反するものではなく、ある一つの学びの中に同居可能であると考えるべきである。 つまり、ここで真に問題とされているのは、 発達/生成の区分を見誤る錯誤││ 学びの評価において発達/生成を転倒させてしまい、可能性を封殺してしまうような事態 ││ である。例えば、ここまでみた限りでも、ACOPにおいて「穴」の可能性をいわばある種の挫折体験(とその乗り越え)として縮減してしまってはいないだろうか、といった問題が直ちに懸念される。 発達/生成の両側面への引き裂かれを自覚しつつ、学びの可能性を損ねてしまわぬよう、繊細で、危ういバランスを保つこと。それは、はたしてどのようにして可能になるだろうか……。この問いは、前章での問い ││ ACOP │対話型鑑賞における対話/他者モデルの選定 ││ とも同じ硬貨の裏表の関係にあるだろう。本稿の議論は、ある調性のもとに共鳴しつつある。196研究ノート[ACOP ─ 対話型鑑賞についての基礎的考察 ── 共同体 ─ 外的学びへの試論 ──]北野 諒 しかし、このまま議論の俯瞰に移るまえに、本節での議論を美術教育のパースペクティブに転送する必要があるだろう。こと美術教育においては、発達/生成の引き裂かれがもっとも鮮烈に顕われ、私たちの議論と同様の困難が、繰り返し論じられてきたからである。そのような背景を踏まえて、次節では「教育」と「芸術」の境界面で、本節で明るみにされたダブルバインドを先鋭化させている熊倉敬聡の議論を追ってみよう。(二)脱芸術/脱教育 ハーバード・リード(Herbert Read)の『芸術による教育』(25)を引くまでもなく、「教育」と「芸術」の緊張関係については「芸術への教育」、「芸術による教育」、「教育という芸術」など立場の違いはあれど、連綿と議論が行われてきた(26)。美術教育においては、「学」としての体系を保証する実証性(体系的に構成された美術の方法論)と、そのような量的計測を逸脱する美的体験(感性の自由な迸り)という両側面が常にせめぎあっているのである。 ここでその議論を通覧することは不可能であるが、さしあたり日本の戦前│ 戦後美術教育史の大局 ││ 大正自由画教育 │ 構成教育 │ 創造主義美術教育という両極への振り子的運動 ││ を回想してみるだけでも、芸術と教育の葛藤は明らかだろう(27)。そして言うまでもなく、これまでの私たちの議論は、かような美術教育のパースペクティブの反復と変奏でもある。* 熊倉敬聡は、このような「教育」と「芸術」の問題設定を超えて ││ というよりも、そのような問題設定を脱臼させた脱芸術/脱教育のあわいで ││オルタナティブな学びの可能性を追求している。熊倉は、自身の大学の授業名を冠した著作『美学特殊C ││ 「芸術」をひらく、「教育」をひらく』において、以下のように述べている。 「労働の数字への還元、その極大化、競走、目的=生産物、プログラム、効率、一対多、一方向、命令/義務、役割の固定化・専門化、禁欲原則、等々といった資本主義のロジックに貫かれていた従来の教育を、労働の非数量化、共働、互助、プロセス、半端・下手・未熟の肯定、脱線・無駄・遊びの称揚、双ないし多方向、自発/アシスト、役割の流動性・横断性、快楽原則へと脱資本主義化する。しかも、そこに、やはり既存の『芸術』の制度に不満をもち、逸脱しようとしている芸術家、というか〈脱芸術家〉が参入してくる。そんな、教育の現場での、〈脱資本主義〉と〈脱芸術〉のヴェクトルのスリリングな交錯こそ、これからの日本の教育に必要とされていることではないだろうか」(28) ここで熊倉が指摘する「資本主義のロジックに貫かれていた従来の教育」とは、私たちがこれまでみてきた「発達としての教育」における、負の側面の極限的形態であると考えてよい。「教育」に関して、熊倉は私たちと同じ問題││ 発達の論理に回収されてしまう生成の瞬間 ││ について思考している。 さらに熊倉によれば、「芸術」においてもまた、「教育」における窒息と同様の状況が蔓延しているという。熊倉は『脱芸術/脱資本主義論 ││ 来るべき〈幸福学〉のために』にて、ダダイズム、モダニズム、ポストモダニズムによって「『芸術』は、二〇世紀に入り、少なくとも三度『死んだ』」と述べ、その後に散乱した美的価値の断片も「広告という消費資本主義のロジックにすみやかに盗用・同化されていった」とし、現代社会における芸術の惨状を描き出している。(29) この熊倉の態度はつまり、そもそも現代においては「教育」や「芸術」そのものが制度的価値として形骸化しているという認識のもと、そのような窒息した「教育」や「芸術」から逃れ出るような学びの場を設計し、「穴」の体験を回復しようという目論みである。熊倉は学びの場そのものを「芸術」として、否、〈脱芸術〉として生成させることに「これからの日本の教育」の、否、〈脱教育〉の可能性をみている。 ACOP │ 対話型鑑賞において、熊倉ほど明確に「芸術」「教育」あるいは「資本主義」に対する態度決定が行われているとは言い難いが、これまでの議論を追ってきた私たちにとっては、この認識はACOP │ 対話型鑑賞と親和性が高いものであるように思われる。 なぜならば、(1)知識の一方的な教授ではなく、作品の相互的な享受を企図するACOP │ 対話型鑑賞は、制度としての美的価値(アート・マーケットや197京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号美術史における価値基準)を一旦括弧に入れる「私たちにとって芸術とは何か」という視座を持つものであり、(2)また、「対話」を原理的に問いつめた「失敗のコミュニケーション・モデル」における「穴」の体験は、「資本主義のロジックに貫かれていた従来の教育」の有用性を転覆させる可能性を孕んでいるのだから……。 整理しよう。これまでみてきたような対話/他者の問題、「教育」や「芸術」における発達/生成の問題は、必然的に、「他者」との「対話」を介して「芸術」を鑑賞する「教育」プログラムであるACOP │ 対話型鑑賞において最も濃密に圧縮されているといえる。そして、上にみた熊倉の議論は私たちの問題と正確に共鳴している。 であるならば、私たちは熊倉の実践 ││ 彼の大学での授業 ││ を、ACOP │ 対話型鑑賞の比較対象として検討することができるはずだ。本稿での議論は一方で汎領域的に多様な問題群を拡散しつつ、他方で基礎的考察の要となる幾つかの論点が急速に成型されつつある。次節で熊倉の実践を参照し、急ぎ、問いの総体の塑造へ向かおう。(三)美学特殊C(参加したりしなかったりすること) さて、熊倉は前節で述べたような問題意識を踏まえ、大学での授業「美学特殊C」を実施している。熊倉によれば、美学特殊Cは学生が「自分自身の手で協力し合いながら『作る』授業、一つの『作品』のように作る授業」であり、「教師は、その自発的かつ恊働的プロセスを見守り、サポートするにすぎない」(30)という。 授業は、まず学年も専門もバラバラの学生が集まり、何をするか考えるところから始まるという形式をとっており、その意味でメタ授業(授業で何をするかを授業で考える)と言えるだろう。また熊倉は、美学特殊Cにて行われた多様な試みのうち、「京島編集室」というプロジェクトを重点的に紹介し、その内容について以下のように要約している。 「『京島編集室』とは何か? 商店街の空き店舗(元米屋)に数人の学生が二ヶ月間住み込み、(あえて「アーティスティックな」仕掛けをプログラムしたりすることなく)ただ純粋に京島に『住む』という事実から出発して、『日常』に起こる様々な出来事(歩くこと、挨拶をすること、買い物をすること、酒場で飲むこと等々)を通して、地域の人たち、あるいはアーティストたちと交流を育んでいく、そんなプロジェクトなきプロジェクトである」(31) 一読して明らかなように、ここでは美学特殊Cの構造が入れ子状に繰り返されている。「プロジェクトなきプロジェクト」、つまり、とりあえず無目的に「住む」ことで、その都度ごとに出来事を生成していく ││ 熊倉の言を借りれば、それは「新たな現場そのものの創出」 ││ という構造は、まさにメタ・プロジェクト(プロジェクトで何をするかをプロジェクトで考える)である。 このメタ・プロジェクトたる京島編集室の学びの様態、その場が醸し出すであろう「雰囲気」のようなものは、参加した学生の以下のような言葉に色濃く顕われている。 「(……)見学がてら、編集室で二次会に突入。たまたまあそびにきていた弦くんと古谷くん、フランスからの二人のアーティストに加え、近所にステイしているスペイン人アーティストのマリア、P3から坂口さん、帯広から三橋さん、京島から文化祭実行委員長の三好さんなど、本来あまり出会わないと思われる人たちが、普通に楽しく飲んでいる。この普通さは、なんだろう」(32) この学びの構造は、なんだろうか。ある種の緩やかさに満たされた学びの場で、活動に参加したりしなかったりすること。特に何もするつもりがなかったのに、唐突に、思いもかけない出来事に巻き込まれること……。 これらの学びの構造はしかし、私たちが見てきたような対話/他者の様態、教育と芸術における発達/生成の論理の緊張関係を踏まえるならば、自ずと導きだされる学びの一形態ではないだろうか。 私たちはここにおいて、美学特殊C │ 京島編集室と、ACOP │ 対話型鑑賞との鮮やかな対照と、これまでの議論を纏めあげる結び目をみることができる。(四)考察 ここでの考察は、美学特殊C │ 京島編集室/ACOP │ 対話型鑑賞の比較198研究ノート[ACOP ─ 対話型鑑賞についての基礎的考察 ── 共同体 ─ 外的学びへの試論 ──]北野 諒検討であり、これまでの議論において見出された問題群の再圧縮の工程でもある。以下、煩雑さを避け、a.メタ視点/b.「穴」の二点に分類して比較考察を進めよう。a.メタ視点 熊倉は美学特殊Cを構想するにあたって、共同体における学びの論理として、私たちが先に参照した「正統的周辺参加(LPP)」論に批判的に言及し、LPPは、「あくまで実践共同体内的学習を理論化するものであって、実践共同体間的学習を理論化するものではない」(33)と述べている。 これはつまり、学びの共同体においてど? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?のぐらいの他者性を見積もるか、という問題であり、他者とはいえあくまで「既存の体制の再生産に貢献する」程度の弁証法的コミュニケーションを想定するのか、それとも「共同体の構造を致命的にまで脱構築し、新たな共同体への組み替え」を起こす程の地殻変動を想定するのかによって、学びの構えは大きく異なるだろう。 例えば、ACOP │ 対話型鑑賞では、作品を介した自由な対話の場が設定されるが、それは裏返せば「作品を介した自由な対話の場」が先行的に決定されているということでもある。つまりACOP │ 対話型鑑賞では、学びの場におけるコミュニケーションのレベルで、学習者が他者に出会うこと(学習者の「穴」との対峙による質的飛躍)は想定されているが、それを下支えする学びの場のシステムそのものが他者に出会うこと(対話型鑑賞のルール自体が揺るがされ、書き換えられること)は慎重に回避されているのではないだろうか。身も蓋もない表現をすれば、「自由な対話の場」においては、「自由」とはいえ、学習者が「そもそも対話に参加しない」という可能性が初めから排除されているのである。 しかし付言しておけば、それは学習環境デザインの思想としては至極真っ当なものである。ネガティブな喩えではあるが、「学びの場のシステムそのものが他者に出会う」ということは、学校教育に準えるならば、ほとんど学級崩壊のような事態(あるいはそもそも学校が存在しないという事態)であるとも言えるのだから……。 対して美学特殊C │ 京島編集室では、あらゆるプロジェクトがメタ視点からスタートしている。それゆえ、全ての活動が原理的に「そもそもそのような活動をしなかったかもしれない」という可能性を初めから確率的に含み、自己言及的な批判の契機として作用すること、学びの場のシステムそのものが可塑的に変形することが見込まれるのではないだろうか。 しかし、かような美学特殊C │ 京島編集室における学びの構造(いわば意図的な学級崩壊)においては、学びの形式は設定され得るが、学びの内容に関しては、大枠の方向付けのみが可能であり、ある特定の内容を確実に教授することはできない。つまりそれは、そ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?もそも学びが成立しないかもしれない、とい?う?条?件?の?? ? ?もとで、? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?確率的に学びが起こる可能性に懸ける ││ そのような態度である。 そこでは、教師あるいはファシリテーターの役目は、原理的には学びの場の環境設計のみであり(そしてそのような設計さえ他者に上書きされる可能性があり)、彼あるいは彼女は、一人の学習者として活動に参加したりしなかったりすることになるだろう。b.「穴」 「穴」に関してはこれまでの議論から二つの論点を総括することができる。すなわち、(1)「穴」は目的化することができず、(2)その内実は「不能」や「失敗」に限らない、という二点である。 そもそもACOPに関して、「穴」や「不能」といった用語群は伊達の論考において導入されたものであるが、これらのイディオムの背後にフロイト(Sigmund Freud) │ ラカン(Jacques Lacan)の「去勢」概念をみることは、それほど的外れではないだろう。極めて乱暴な要約になるが、「去勢」とは、子どもが自らの全能性の断念=「不能」を受け入れ、一人の大人 ││ 論理的なコミュニケーションのもと、合理的な判断を下す主体 ││ として成熟することである。これは言うなれば、積極的に社会に参画する「強い主体」であり、ACOPでは「去勢」の施術によって、そのような「強い主体」に変容することが、ある一面では目指されているといえる。 そして、「300時間にも及ぶ自主練習」の中、徹底的に「自らの不能」と向き合うというACOPの環境を鑑みれば、どこかで「去勢」への強迫観念が響いているように思われる。「去勢」としてのみ「穴」を捉えることに必要以上に拘泥してしまうと、「私たちは人間として成長するために『去勢』されな199京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号くてはいけない」といったような「穴」の可能性の矮小化・目的化を引き起こし、素朴な精神論に限りなく近いイデオロギー(限界を超えて頑張れ/無限に他者に開かれろ)を発生させてしまうことになるだろう。(34) とはいえ、これまでの議論に照らして、いささか批判的なニュアンスで記述したものの、「発達としての教育」のパースペクティブでは、「去勢」による「人間的な成長」は全く正しく教育的である、ということは強調しておくべきだろう。ACOPでの試みは、「去勢不全」の結果でもある(35)、昨今の「コミュニケーション能力」や「生きる力」の問題への、正面からの回答であるとも言えよう。 一方、美学特殊C │ 京島編集室では、学習者が複数の活動=共同体に「参加したり、しなかったりする」ということ ││ 共同体「間」的に運動すること ││ によって複数的な「穴」の体験を生成する。そのような状況においては、個々の共同体自体も絶えず不定形で多孔質なアメーバのように変態しつづけ、あるいは突然飛躍的に変身をとげ、もしくは唐突に消滅したりすることになるだろう。 そのような美学特殊C │ 京島編集室の学びの構造は、従来の教育観からは全くアナーキーなものであるかのように思える。なぜかといって、共同体における学び=「発達としての教育」においても、「穴」=「生成としての教育」においても、美学特殊C │ 京島編集室ではその可能性が「確率的な出会い」に懸けられているのであり、ある「目的」や学習者の「成長」に向けて合目的的に学習を設計することはできないのだから。「穴」だらけの偶然性に充ちた学び ││ 私たちは、そのような学びの様態をまだうまく想像することができない……。* 以上の考察を経て明らかになった両者の対照を改めて整理してみよう。 ACOP │ 対話型鑑賞では、原理的に「対話」や「他者」を問いつめる一歩手前で、現実的な教育の諸問題と辛うじて緊張を保ちながら、学びのモデルが設定されている(公共圏 │ LPPモデルと失敗のコミュニケーション・モデルの折衷型)。ACOP │ 対話型鑑賞(特にACOP)は、形骸化してしまった「発達としての教育」の可能性を再構築すること ││ 主体的に自分で考え、合理的な判断を下せる「近代的な市民」を育てること ││ を目的としていると言えるだろう。それはいわば「教育」を諦めずに再起動させようとする態度である。そこでの「穴」の扱いは、不用意にその可能性を縮減しないように注意しながら、しかし同時に創造的契機として否定や失敗の導入を試みるという、アクロバティックなものになるだろう。 一方、美学特殊C │ 京島編集室での試みは「本稿での議論の原理的な可能性をそのまま実際の学びの場として実現すればどうなるか」という一つのモデル・ケースであると言える(失敗のコミュニケーション・モデルのリテラルな実践)。その思想は、〈脱教育〉と名指している以上当然であるのだが、いわば従来的な意味での教育を諦めるという態度 ││ と同時に、別の仕方で教育の領域策定を明らめる(教育の輪郭線を引き直す)という態度 ││ である。そこでの「穴」の扱いは積極的、というよりも、発達/生成といった分類を問わず、あらゆる教育そのものが「穴」に出会うことからしか始まらない ││ 教? ? ?育はた?ま?た?ま?確?? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?率的に発生するしかない ││ といった教育の条件そのものになるだろう。 そして、程度の差こそあれ両者に共通するのは、学びの共同体の「外」との緊張関係を呼び込むという態度である。共同体 │ 外的な観点はこれまでのACOP │ 対話型鑑賞の分析において、ほとんど明示的に論じられていない。今後も継続して検討されるべきテーマであるだろう。 最後に誤解を避けるため注記しておくならば、無論ここでの考察は、学びのモデルの正当性や価値の多寡について断ずることを目的としているのではない。それぞれの差異を洗い出すことで、各々が立脚するモデルをより明瞭に捉えること、学びの様態の多様な可能性を展望することが目的である。例えば、ここで得られた知見をもとに、ACOP │ 対話型鑑賞のモデルの変容を試みること。あるいは、美学特殊C │ 京島編集室から垣間見えた、また別の学びの様態を追跡してみること……。 学びの場とは、人間や社会の孕む様々な矛盾がせめぎあう場でもある。そしてアートとは、そのような矛盾の調停、異なるものの隣り合わせを可能にする術(ars)ではなかっただろうか。200研究ノート[ACOP ─ 対話型鑑賞についての基礎的考察 ── 共同体 ─ 外的学びへの試論 ──]北野 諒四、結 本稿で解明を試みた、「ACOP │ 対話型鑑賞の基礎に潜在している問題群」の要となるものは、おおよそ以下の二つの論点として定式化されるだろう。 論点(1)ACOP │ 対話型鑑賞において、私たちはどのような対話/他者モデルを採用すべきだろうか。 暫定的応答(1)公共圏 │ LPPモデル/失敗のコミュニケーション・モデルの二極を考えることができる。 論点(2)ACOP │ 対話型鑑賞での学習はどのように評価すべきか。 暫定的応答(2)発達としての教育/生成としての教育の二極を考えることができる。 また、これらの論点をもとに、実際にどのような学びの様態が考えられるかということを、ACOP │ 対話型鑑賞/美学特殊C │ 京島編集室の対比から眺め、「共同体 │ 外的な観点」という共通の視座を得ることもできた。ここでの試みが、ACOP │ 対話型鑑賞を巡る議論にある種の「見通しの良さ」を提供することができるのならば、あるいは駆け足の議論の中で、いささか乱暴に布置してきた問題群が今後の考察の足がかりとなるのであれば、幸いである。 もちろん本稿はごく粗いスケッチに留まるものであり、特に、「穴」あるいは「共同体 │ 外的」といったキータームのより精密な検討や、発達/生成の引き裂かれを縫合する「学びの術」を、より多様な事例の中に探索してゆくことが求められるだろう。そのような課題を踏まえ、具体的に今後の展望を幾つか記しておこう。 (1)リレーショナル・アートの作品群、あるいはその理論的支柱をなすニコラ・ブリオ(Nicolas Bourriaud) │ クレア・ビショップ(Claire Bishop)らの議論を参照し、現代アートにおいて「コミュニケーション」の問題がどのように扱われているかを検討する。ACOP │ 対話型鑑賞と作品分析をパラレルに論じることで、学びの場の設計についても様々なヴァリエーションを得ることが叶うだろう。 (2)学習者の「主体」の問題。本稿ではごく簡単にしか触れられなかったが、ACOPにて目指される「強い主体」とは対照的に、熊倉は現代に生きる人間の実存的様態を「仮設的主体」、つまり「弱い主体」であると述べている(36)。「近代的な市民」とは正反対の、主体的に自分で考えず、情動的な反射を繰り返す「ポストモダン的な動物」を前にして、「教育」と「芸術」はいかに応答することができるだろうか。 ACOP │ 対話型鑑賞から導かれる議論は、必然的に、狭義の分野に留まらない複雑に絡み合った問いの塊を召還するものであったようだ。本稿での「地ならし」を経て、私に課せられた課題は、山積した巨大な問いの回答に創造的に失敗し続けること、あるいは、そのような問いを担保するゲーム自体をうまくリセットすることであると考えている。註(1) 京都造形芸術大学 アート・コミュニケーション研究センター編『アート・コミュニケーションプロジェクト報告書』(年刊、二〇〇五│二〇一〇年)。以下、煩雑さを避けるため、引用の際は単に「『◯◯年度報告書』(発行年)頁数」という形式で表記する。(2) VTCとは、八十年代にニューヨーク近代美術館の教育部門で開発された対話型鑑賞法である。現在はその名称をVTSと変え、NPO法人VUE(Visual understanding in education)がその普及や研究を行っている。(3) 『二〇〇七年度報告書』(二〇〇八)三一頁(4) 『二〇〇六年度報告書』(二〇〇七)三四頁(5) 長井理佐「対話型鑑賞の再構築」(『美術科教育学会誌』30 号、二〇〇九年)二六五│二七五頁(6) 前掲書 二六七頁(7) ユルゲン・ハーバーマス『?第2版?公共性の構造転換││市民社会の一カテゴリーについての探求』細谷貞雄・山田正行訳(未來社、一九九四年)201京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号(8) 前掲書 二一六頁(9) 前掲書 二二〇頁(10) リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』斉藤純一・大川正彦・山岡龍一訳(岩波書店、二〇〇〇年)(11) 前掲書 二六九頁(12) 柄谷行人『探求Ⅰ』(講談社、一九九二年)一一頁(13) 前掲書 七│一〇頁(14) ジーン・レイヴ&エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習│正統的周辺参加│』佐伯胖訳(産業図書、一九九三年)(15) 『二〇一〇年度報告書』(二〇一一)二四頁(16) 『二〇〇八年度報告書』(二〇〇九)三三頁(17) 『二〇〇七年度報告書』(二〇〇八)三四頁(18) コミュニケーションの失敗がむしろ規則を事後的に生成するという事態について、東浩紀『存在論的、郵便的││ジャック・デリダについて』(新潮社、一九九八年)において柄谷の議論がより精緻化されている。(19) 『二〇〇七年度報告書』(二〇〇八)三五頁(20) 矢野智司『贈与と交換の教育学』(東京大学出版会、二〇〇八年)一二三頁(21) 前掲書 一二五│一二六頁(22) 前掲書 一二四頁(23) Abigail Housen “Eye of the Beholder: Research, Theory and Practice”(1999)available at http://www.vtshome.org/(24) Abigail Housen “Aesthetic Thought, Critical Thinking and Transfer”(Arts andLearning Journal, Vol.18, No.1, 2002)available at http://www.vtshome.org/(25) ハーバード・リード『芸術による教育』植村鷹千代・水沢考策訳(美術出版社、一九五三年)(26) 総論的なガイドとして、石川毅『芸術教育学への道』(勁草書房、一九九二年)など。(27) 日本の美術教育史へのガイドとして、金子一夫『美術化教育の方法論と歴史?新訂増補?』(中央公論美術出版、二〇〇三年)など。(28) 熊倉敬聡『美学特殊C││「芸術」をひらく、「教育」をひらく』(慶応義塾大学出版会、二〇〇三年)四六頁(29) 熊倉敬聡『脱芸術/脱資本主義論││来るべき〈幸福学〉のために』(慶応義塾大学出版会、二〇〇〇年)一一頁(30) 前掲書(熊倉、二〇〇三)六三頁(31) 前掲書(熊倉、二〇〇三)六四頁(32) 前掲書(熊倉、二〇〇三)六六頁(33) 前掲書(熊倉、二〇〇三)五九頁(34) 「穴」という用語にはまた、フランス現代思想における「脱構築」をめぐる議論も含意されている。ある構造を脱臼する契機であったはずの「穴」が、いつのまにか素朴なイデオロギーの中心に転化してしまう事態について、例えば、千葉雅也「インフラクリティーク序説││ドゥルーズ『意味の論理学』からポスト人文学へ」『思想地図β vol.1』所収(合同会社コンテクチュアズ、二〇一一年)二七三│二九四頁にてクリアな解説が与えられている。(35) 例えば、精神科医 斉藤環による「ひきこもり」を巡る議論などを参照のこと。(36) 前掲書(熊倉、二〇〇三)三〇頁。ここでの熊倉の認識は東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社、二〇〇一年)における議論を下敷きにするものである。"}]}, "item_10002_version_type_43": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", 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PDF (1.1 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2013-07-31 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | ACOP ―対話型鑑賞についての基礎的考察―共同体-外的学びへの試論― | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
著者 |
北野, 諒
× 北野, 諒 |
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書誌情報 |
京都造形芸術大学紀要 en : Genesis 号 16, p. 190-201, 発行日 2012-10 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 京都造形芸術大学 | |||||
書誌レコードID | ||||||
値 | AN10448053 | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 研究ノート | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Report of research | |||||
言語 | en |